首を締められる夢を見た。夢の中で動脈が脈打つ感覚を覚え、あまりの気持ち悪さに目が覚めてしまった。
その時、最近感じていた退屈感、脳の一部しか使用していないような凝り固まった感覚の原因を思いついた。
想像する能力とは、積極的に錯覚を感じる力なのではないだろうか。
例を上げれば
- 有名な錯視で、老婆と若い女を行き来する感覚
- 布団に入り目を瞑っているうちに、部屋に対して自分の体の向きが逆にあるのではないかと思う感覚
- ASMRを聞いて、耳の中に侵入する指の感覚
どれも現実から入力のフィードバックを意図的に弱くしたり弄ることで、脳のベイズモデルを暴走が生み出した錯覚だ。
あるいは子供のこ特定の部屋の特定の物に対して恐怖を感じなかったか(私は実家の2階にあるPCが怖かった)
- ビルの間を走り、飛び回る忍者を想像しなかったか
- ポケモンがまるで自分のそばいるかのように話しかけなかったか
なるほど子供は認知能力が未熟であるため、大人よりも認識にしめる”想像”のウエイトが大きいのだろう。現実からのフィードバックを弱めて脳に感覚を委ねること、これこそ子供の持つ原始的な想像力の正体なのではないだろうか。
年を重ねるにつれ、周囲の現実は明晰かつ明瞭になり、怖かったものは現実の物体にすぎず、間違えて覚えていた概念も勘違いだと気づく。
だが現実世界はそれほどバリエーション豊かなものではない。”想像”を失えば脳の認識に対する現実の割合が大きくなれば、同じ入力でいつも同じところが発火する脳は疲れ、痛み、終いには飽きてしまうだろう。
認識に対して飽きたとき、大人はさらなる刺激を求めてより過激な現実へと走る。なになに依存はまさにそれだし、私も現にネット依存だ。
だが子供は違う。現実を遮断し、脳を暴走させることで、いつでもどこでも使ったことのない脳のニューロンを発火させることができる。
私はいつから歯磨きをするときに目を閉じなくなったのだろう。いつから2階のパソコンが怖くなくなったのだろう。いつからここまで世界が明瞭になったのだろう。いつ”想像”することができなくなったのだろう。
ただし、これは厄介な問題である。生きていくためには、現実からの入力に直面することは避けられない。そのバランスが過度に傾けばそれは一種の病気であろう。
だが今ある現実しか見れない人間が、なにかを作り出すことなぞできるはずがない。現実ではないものを想像し、そこにある、今なくても将来的にあると錯覚すること、それこそが創造の第一歩ではないだろうか。
現実を遮断せよ。現実からの入力を弱め、脳の認識モデルを暴走させ、その錯覚を、その想像を現実へ出力しよう。創造のためには。
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